わたしがゲストハウスを始めるわけ①

おばんです。

ここ最近は寒い日々が続いて、風邪を引いてしまいました。

風邪なんていつぶりだろうというほど、

元気に過ごせていたことに感謝ですね。

 

 

さぁ、今日は私がゲストハウスを始める理由をお伝えしますね。

①~③とこれもシリーズものです。

①【人と人、地域とが「つながる場」をつくりたい】

②【場づくりに選んだものはゲストハウス】

③【わたしが思い描くゲストハウス】

 

 

まずはじめに、

そもそもゲストハウスとは?というところですが。

 

ここ数年で急増しているようです。

全国各地様々なゲストハウスがありますが、東北地方は少ないほうですね。

ただ岩手県では7月以降で花巻市宮古市にゲストハウスがオープン予定です。

少しずつですが、そうした動きが近くであることは嬉しくなりますね。

 

 

世界や日本各地から訪れるゲストハウスには、国籍も年齢もキャリアも異なる様々な人たちが集まります。いろいろなバックグラウンドをもった人たちが集まり、つながり、その場で、その時しか過ごせない「時間」を共有する。こんな面白いトコロがあるのか!とゲストハウスの存在を知ったときはわくわくだらけでしたね(笑)

 

価格が安いところも魅力的ですが、

私の中では人と

「出会う」

「つながる」

というところが一番の魅力ポイントでした。

 

キッチンやトイレ、シャワーは共有で、

部屋はドミトリー(相部屋)が主なので、

プライベート空間はホテルや旅館と比べたらないに等しいですが…(笑)

 

ゲストハウスのスタッフさんや常連さん、地元住民さんにまちの面白いトコロやヒトなどディープな情報を教えてもらったり、紹介してもらったり…

 

 

"よりその土地を近くで触れて、知ることができる"

 

"旅する時間をさらに楽しくする"

 

 

そんな要素も持っているんじゃないかなと思ってます。

 

 

さてさてわたしが、

①人と人、地域とがつながる場をつくりたい!そう思った経緯について話しますね。

 

そもそもなぜ自分は「つながり」というものにこだわり続けているのか、

気づいたら最近よくこのことについて考えているなと思いました。

 

 

7年前の災害を経験したわたしは、

その後を過ごしていくの中で、たくさんの方たちに出会いました。

これはみなさんも同じところがあるかもしれませんね。

いろいろな方との出会いがあり、つながりがあり、今に至るなんてこともあるでしょう。

 

わたしもその一人で、

出身や職種、年齢も違う人たちとの出会いや、つながりがあったことで、

今の選択に結びついていると思っています。

 

 

当時よく使われていた絆やつながりという言葉をあまり好んではなかったんですが、

自分の暮らしの中で

「つながり」

というものは必要不可欠なもので、

これまで数々の「つながり」があったおかげで、

今日まで進んでこられたと思っています。

 

これまでの地元でのつながり、

高校生の時出会ったボランティアさんとのつながりや、

大学生の時出会った映画監督さんとのつながり、

所属していたサークルでできたつながり、

学生当時行っていた様々な活動で出会った方たちのつながり、

石巻でできたつながり…

 

 

これまで出会った人たちから学んだ「つながり」の大切さみたいなものを、

今度は自分の手で"場"をつくることで、

これから出会うであろう数々の「つながり」の時間に使いたいと思っています。

 

 

 

「つながる場」

言葉だけ聞くと、とてもざっくりとしたものですが、

その根底にあるのはやはり震災の経験が大きかったわけです。

 

「つながり」の大切さを身をもって感じ、

その「つながり」に支えられ、

選んだ道は「つながる場」をつくるという選択でした。

その手段として選んだのがゲストハウスとなったわけです。

なぜゲストハウスだったのか?

それは②【場づくりに選んだものはゲストハウス】でご紹介します。

 

 

 

 

 

【人と人、地域とがつながる場】 

そんなこんなでおーわり。

 

 

 

 

 

あずは何者か③

こんばんは。

気まぐれなもので、週一回程度の投稿となってます。

 

 

さて、今回は石巻に移った時に出会った牡鹿半島のおばあちゃんたちのお話です。

 

まず、牡鹿半島とはどこか。

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宮城県の↑ええ、ここです。

捕鯨は有名ですよね。

わかめや牡蠣、ホヤ、海の幸は豊富です。

 

 

全人口は3000人弱。震災前からの人口流出は震災を機にさらに加速。過疎高齢化地域なのです。

 

ただ、ここに暮らすおばあちゃん、おじいちゃんはとても元気です。後でお話しますが、ぶっきらぼうだけど、愛があるとても温かい人たちです。

 

 

万石橋を渡り、

いざ半島へ入ると、

道はくねくねくねくね。

プラスして、道が狭いところを大きなトラックが行き来するなかなかに走りにくい道です。

道路のわき道を歩いているのは人ではなく、シカのほうが多いです。

お越しの際は、シカに注意してくださいね⚠︎

 

 

 

 

ここ牡鹿は、7年前の津波で大きな被害を受けました。

今は公営住宅や自宅再建の建設が進み、仮設住宅もずいぶんなくなりました。

と同時に、海と陸の間には高い高い防潮堤が建ち並び、運転中は右手に防潮堤・左手に高盛土。圧迫感は半端ないです。

 

でも海はとてもとてもきれいですね。特に5月からの時期は木々の色と、海の色がとてもきれいです。

 

 

 

そんな牡鹿半島で開かれているサロン活動。

私が参加していたサロン活動では、約10~15人ほどの住民さんが集まっていました。

活動は月に4回(食事会)あり、火曜日チームと土曜日チームでメンバーが違います。

 

 

朝10時くらいからぞくぞくと住民さんたちがやってきます。

玄関のほうが何やら賑やかだ…

 

「あら、いずみちゃん!」

 

「おはようございます!」

 

 

と2週間ぶりに会い、

両手を握り、笑顔でご挨拶。

 

 

みなさん、ほぼ定位置となるところに座り、

各々持参した料理がテーブルに並びます。

お昼前のあの量はすごい、圧巻です。

一度来てみたらわかります。

タッパの数..料理のレパートリー..素晴らしい。

ワカメシーズン、牡蠣シーズン、タッパの中を見れば、旬ものがわかります。

サロン参加の日は朝食抜きでいつも行ってました。

 

 

 

そしてどれも美味しいのです。

本当に絶品です。

 

 

 

みなさんの手料理は

言うまでもなく美味しいのですが、

そのほかにも...

 

手芸が得意で、いつも笑顔で、一緒にいると楽しくて笑いが止まらないおばあちゃん

 

肌がツヤツヤでカラオケの会に通う歌上手なおばあちゃん

 

ぶっきらぼうだけどいつも

「ちゃんと食べでっか?」

と言い、タッパいっぱいにかぼちゃの煮物や魚の煮付けをご馳走してくれるおばあちゃん

 

畑仕事を難なくこなす80代のおばあちゃん

 

我らが料理長、サングラスがお似合いで優しい笑顔のおじいちゃん

 

ワカモノに負けないくらいご飯の食べっぷりが良い90代のおばあちゃん

 

 

個性豊かでとても素敵な方々です。

 

 

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コースターとボトル入れ。ほかにも魔法の手からうまれる編物はどれもかわいい。

 

 

 

 

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いつぞやの収穫祭。みなさん、慣れてらっしゃるからワカモノが出る番なく終了。

 

 

 

そんなこんなで2年間、牡鹿のおばあちゃんたちにお世話になりました。

2年いると関わり合いも深くなり、

特に2年目は結婚というワードのオンパレードです。

 

「〇〇のところに嫁さいけ!」

 

「29歳!収入もあるぞ!」

 

と容赦ないお見合い話が飛び交うのですが、

それもまた面白くて。

 

その土地から離れて一か月しか経っていませんが、

すでに懐かしさを感じます。

 

 

 

みなさんもぜひ牡鹿半島へ足を運んでみてください。

 

地域の世話上手なおばあちゃんたちに会えると思いますよ。

 

 

 

…ほぼ自分のこと語っていないけど「あずは何者か」シリーズおーわり。

 

あずは何者か②

こんばんは。あずです。

前回は大学までのハナシをざっくりとしました。 

 

 

さて、今回は大学卒業後に移り住んだ

石巻での活動についてです。

 

 

スクールカウンセラーを目指していたわたしが

なぜ復興支援員へ?と思った方もいると思いますが、単刀直入にいうと、スクールカウンセラーの道は選ばなかったんですね。

 

 

ただ、「震災」という

ワードはいつも頭の中にありました。

  

 

考えがまとまらないまま大学4年をむかえ、

もうそろそろ決めないといけない時期にさしかかりました。 

 

その頃、

児相でのアルバイトや

学校でも発達心理を学んでいたため、

養護施設への就職を希望しました。

 

就職先が決まる!というところにきて、

「だけれども...」と悪い癖がでるわけです。

....

このまま決めてよいのか...

と悩み始めたわけですね。

 

そこでずっと頭の中にあった

 

 

「震災」

 

 

というワードが頭から離れなかったのです。

 

 

 

それはなぜか...

2016年の3月11日で丸5年だったんですね。 

節目となる年で思うことは多々ありました。

 

5年前の自分は、

5年後の自分の選択を

予想していなかったでしょうね。

 

 

そんなこんなで、

復興支援に関わる仕事を探していたら、石巻での活動がヒットし、流れに身を任せるわけです。

 

 

 

本題に入るまでが長すぎるのですが、

石巻ではどんな仕事をしていたか?ということについてお話ししますね。

 

 

2年前石巻に移り住んだときは、

当たり前ですが、

現在よりも仮設住宅への入居者が多かったわけです。

さらに石巻は被害の規模が大きく、

住まい再建への支援体制が完全には整っていない状況でした。

 

そのような中で、

わたしの業務としては、

今後の住まいに関する相談業務や市役所等への手続き支援などが主なものでした。

約2年の中でたくさんの方に関わらせてもらいました。

 

分かっていたようで分かっていなかった被災地の人々の暮らしや現状というものは、現場に入り、一人一人の声を聞き、関わり、向き合うことではじめて分かったのです。

 

 

「再建」

 

大きな選択と決断です。

 

このころは私の実家も仮設住宅暮らしで、

ある時にこう思いました。

仮設に入居できたとき、

「家族の時間ができる」そう思って、ほっとしたとの覚えてます。

ただ、そのほっと安心できる場は仮設なんだと…なんだか複雑な思いをしたのを思い出しました。

 

そこからの「再建」です。

“実家といえる場所ができる”

“隣の足音気にせず、ほっと落ち着いて生活できる場がある”

 

そんな「再建」という

人生の中で大きな選択・決断をする場に、

その時間(とき)に

関わらせてもらえるのは、

とても意味あるものでした。

 

 

2年はあっという間にすぎ、とても濃厚な時間でした。

 

 

 その一方で、

牡鹿半島でのサロン活動にも参加していました。

牡鹿では個性豊かなおばあちゃんたちが

わたしを待っていてくれました。

 

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"写真はサロン場所からの牡鹿の海"

 

さぁ、この続きは次回へ...

 

▶︎気まぐれ日記はじめました。あずは何者か①

こんにちは。

岩手県の釜石でゲストハウスをやろうと試みている"あず"といいます。

 

今日から気まぐれに日記をつけたいと思います。

 

まず、わたしは何者か...というところから。

 

岩手県大槌町出身。24さい。

大槌町岩手県沿岸部に位置していて、釜石市に隣接しています。海の幸が豊富で、ワカメは有名ですね。中学校の修学旅行では東京の物産展みたいなところでワカメ販売とかしてましたね(笑)]

自然豊かなところで育った、

訛りがまぁまぁ強い

三人姉妹の末っ子です。

 

地元の高校を卒業して、仙台の大学に進学。

専攻は心理学。

将来はスクールカウンセラーとして、

子どもたちに関わる仕事をしようと考えていました。

 

というのも、2011年3月11日の震災で

わたしの地元は大きな被害を受けました。

自宅兼民宿は津波で流されましたが、

家族はなんとか助かりました。

 

親戚や同級生、

先輩や近所のおじちゃんおばちゃんたち...

周りで犠牲になった方は数多くいました。

 

そんな中、

家族を亡くされた方が、

目の前で泣き崩れたとき、

その姿を見て、

何もできなかった自分に「無力さ」を感じ、

選んだ道がカウンセラーでした。

 

震災前はやりたいことがあるわけでもなく、

なんとなく進学を希望していました。

 

ですが、震災後からの

わたしの暮らしは大きく変化しました。

選ぶ道も、

考え方も、

出会う人も、

わたしを取り巻く状況、環境...

面白くもあり、なんとも不思議なことが起こるなと思いながら今に至ります。

 

大学卒業後は、

宮城県石巻市に移り、

復興支援員として活動していました..

 

石巻でのハナシは

「あずは何者か②」に続く...